大判例

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大阪高等裁判所 昭和25年(う)1728号 判決 1950年12月23日

被告人

高野保

外一名

主文

被告人高野保に関する本件控訴はこれを棄却する。

原判決中被告人下司順吉に関する部分を破棄し、大阪地方裁判所に差し戻す。

理由

検察官の控訴趣意は末尾添付の控訴趣意書のとおりである。

そこで先ず被告人高野保に対する公訴事実第一について判断をする。同公訴事実は要するに「同被告人が約百五十人の聽衆に対し鈴木警察局長の豪莊な官舎の隣に鈴木土木部長の小さな官舎があるが土木部長の表には白墨で土木と書いてある。何故わざわざ土木と書いてあるかと聞いたら、鈴木警察局長と間違われて物を持つて来られたとき断るのが邪魔くさいからということだと演説し恰も鈴木警察局長がその職務に関し多数の人から収賄しているがごとき言辞を弄し公然事実を摘示して同警察局長の名誉を毀損した」というに帰するが、これを仔細に検討すると、

同公訴事実は(一)「鈴木警察局長と間違われて物をもつて来られたとき断るのが邪魔くさいため隣の鈴木土木部長の官舎の表に白墨で土木と書いてある」旨の同被告人の演説自体に関する部分と、(二)「恰も多数人から収賄しているかの如き言辞を弄し名誉を毀損した」との批判的部分の両内容を包含することきわめて明白である。

然るに右(一)は刑法第二百三十条にいわゆる事実の摘示にあたること明らかであるか、右(二)はいわゆる事実の摘示というのではなく(一)の演説か鈴木の名誉を毀損するゆえんに関する検察官の評価あるいは説明を示したのに過ぎないのであつて、同被告人の所為たるいわゆる「摘示事実」そのものは(一)の演説自体に存すること第一公訴事実を虚心に通読すれば容易に了解し得るところであるのに拘らず、原判決の説明するところこの間に存する観念分析が足りない憾みがないでもないが、この点はしばらく別問題とするも原判決の挙示する証拠によればその説明するがごとく鈴木土木部長の門に鈴木警察局長に物を持つて来たものを間違わせないために白墨で土木と書いてあつた事実及び昭和二十二年頃から同二十三年夏頃までの間鈴木栄二方には薪炭西瓜等が度々ダツトサンで豊富に持込まれ、また電気冷蔵庫や牛乳、時には米が這入つていると思われる袋が持込まれ宴会等も頻々と行われる等豪著な生活振が窺われ、統制下物資欠乏により公務員を含む一般世人が生活に苦しんでいた折柄とて相当近辺注目の的となり、右白墨による注意書も必ずしも不自然でないような状態であつた事実がそれぞれ認められるのであり、然る以上右(一)の演説内容はまさに真実合致するものと断ぜさるを得ない。

すでに然りとすれは鈴木が治安維持の一責任者たる以上、かかる事実こそ綱紀肅正の見地からまさに問題視さるべき点であるし、進んで鈴木の公員務としての適性批判上有力な資料であるから一般公衆の検討批判に供せらるべきことむしろ当然である。

けだし公務員は本来高い資質と厳正な行動が強く要請されており、これがためには単に公的方面のみならず、社会の鋭き批判に堪え得る程度の私的生活を営むべきこと新憲法下公務員が全体の奉仕者たる性格を有する当然の帰結であつて、改正にかかる刑法第二百三十条の二第三項制定の精神また畢竟ここに存する。

従つて同被告人の(一)のごとき演説が多数聴衆の面前でなされ内容たる事実が白日下にさらされた結果、聴衆をして鈴木の廉潔性につき疑惑を抱かしめた反面鈴木の名誉感情を刺戟したであろうことは想像に難くないが、苟しくも鈴木が公務員であつて、しかも摘示事実が真実なる以上法律の予期放任するところであつて、甘受するの外なく、他面事実を摘示した同被告人は法律上何ら非難に値しないこと右刑法の改正規定にてらし一点疑ないところである。

されば原判決が同被告人に対する起訴事実中収賄罪構成要件の存在についてまで同被告人に挙証責任あるかのごとき前提の下に立論したのは誤りではあるが、結局において右第一公訴事実を否定したのは正当であつて同趣旨の誤解を前提とする検察官の所論また理由なきものといわねばならぬ。

次に同被告人に対する第二公訴事実について判断をする。

およそ公務員は全体の奉仕者たる地位に相応わしからしめるためにその行為を自由に批判し国民の判断に供させねばならないと共にその批判の自由が公務員の国民として固有している名誉までを無視することがあつてはならないのであつて、改正にかかる刑法第二百三十条の二第三項にいわゆる事実の真実性の証明があれば罰しない旨の規定制定の趣旨が右のごとき批判の自由と公務員の個人的人権の保障とを調和する限界点を定めたものであるものであることは洵に所論のとおりである。

しかし所論はこの法の精神を運用の実際において担保するためには、真実性の証明を可罰性阻却事由と解し、これを犯意の外におくものとしなければならぬと主張するものであるが、かく解することがはたして所論のごとく法益保護の均衡を期するゆえんであろうか。

そこで問題を本件第二公訴事実のごとき摘示事実が犯罪容疑である場合に限定して考究するのが便宜であるが、ここに留意すべきは起訴状によれば「同被告人が鈴木に本件のごとき各犯罪行為がある旨公表をした」かのような記載があるが記録を仔細に検討してみると真相は必ずしもそうではなく同被告人が新聞記者に公表したのは告発したのと同一内容の事実即ち「犯罪の容疑あり」と述べたに過ぎないものと認むべきであり、従つて刑法第二百三十条の二第三項所定の証明の対象たる事実というのは「犯罪行為の存在」ではなく「犯罪行為の疑い」というに外ならないのであるから、こと証明の存否判定の面においては両者の間に著しい差異があるがその点については暫く別問題としてここには敍説の煩を避けるため同被告人の公表事実を一応単に「鈴木に犯罪行為あり」と断定したものと仮定して推論す。

思うに犯罪自体の有無とこれを証明すべき証拠の存否とは観念上別個の問題であり犯罪は刑事訴訟法上証拠がなければ処罰し得ないのはいうまでもないが、逆に証拠がなければ犯罪なしとは必ずしも断定し難いこと勿論である。

ところで右法条において真実の証明がある場合は公表者を罰しないと規定したのは、要するに公務員の虚偽事実に基ずく名誉を保護しないという趣旨であり、換言すれば公務員の名誉に保護を与えるのは犯罪(公表事実)がないからであつて犯罪はあるけれどもその証拠がないからという趣旨でないことはいうまでもない。

即ち右法条にいわゆる不罰の趣旨は証明の背後にある客観的な犯罪事実の存在(公表事実の真否)が問題であり結局犯罪(公表事実)が虚偽であれば公表者を罰しそれが真実であれば罰しないという趣旨に外ならないのであつて、証明自体は本質的なものではないが実際問題として事実は証明を離れて論することが困難である点においてかかる訴訟法的規定制定の合理性を理解すべきである。

かくのごとく公表者不罰の本質的根拠が犯罪事実の存否自体にありとするならば、真実性の証明もまたその関連において考究すべく換言すれば法益保護の均衡は単に表面にあらわれた証拠の点のみで論ずるのは足りないのであり、あくまでその背後にある客観的な犯罪事実の存否という合目的立場から検討すべきである以上、進んで犯罪と捜査の実情(証拠との関係)につき言及せざるを得ない。

思うに犯罪事実の証明は捜査につき専門的豊富な体験や職務上の権力あるいは特殊の組織、機構等捜査上の便宜を有するものであつても時に至難な場合少からず特に被疑者がいわゆる有力者であり被疑事実が被疑者自身の微妙な意思如何に関連するような場合にその感が深いのであるが、かかる場合犯罪捜査につき以上のような職権も便宜もない被告人(または弁護人)が限られた資料をもつて公開法廷で微妙な犯罪行為を証明するがごときは前者に比し幾層倍の困難があり(現に本件においても証人の証言が外部から牽制されたかのような片鱗が散見し真相発見の困難が加重されたかの印象を否定し難い。)事実上不能を強いるものに外ならないことは少しく犯罪捜査の実情に通ずる者にとつては容易に了解し得るところであつて、所論が法益保護の均衡を論ずるに当り検察官と被告人との間に存するかかる雲泥の差異に言及せず単に稀有な場合における挙証責任の問題として取扱つているのはその前提において異論なきを得ないのみならず、所論のごとくんば検察官が自己の職責たる起訴を怠り、犯罪事実の証明を公表者たる被告人に委ね自らは拱手してこれを傍観するような奇現象を生ずる恐れがあり、こと犯罪に関する限り言論や批判の自由は著しく抑圧される恐なしとしない。けだし刑法第二百三十条の二第二項において起訴されない人の犯罪行為をもつて公共の利害に関するものと看做しているのは公訴提起前の犯罪行為を公表することが一は捜査官憲に捜査の端緒を与え他はこれを世論の監視下におき、もつて世論の協力と鞭韃に資することをもつて公共の利益と認めたからであり、同条項が実質的には有力者の被疑事件に対する捜査、検察機関の怠慢、逡巡等を疑わせる事案に対する世論の鞭韃もまたその狙いの一つであることに想到するならば思い半ばに過ぎるのであつて、敍上のような結果は前記犯罪捜査の実情と相まつてただに同条項制定の趣旨を汲却しこれを空文に帰せしめるのみならず、こと有力者の犯罪行為に関する限り憲法の庶幾する言論の暢は竟に期待し得ないという不当な結果を招来するであらう。

(イ)  斯く考えてくると真実性の証明をもつて可罰性阻却事由と解しこれを犯意の外におこうとする所論にはたやすく賛同し難く、むしろ真実性の証明も、また犯意の対象として検討すべく、これに関する認識の欠缺が犯意を阻却するものとする原審の見解に左祖せざるを得ない。

即ち斯く解することにより事実証明の面においてもまた認識の有無が問題とされるのであつて、かりに証明不十分の場合でも摘示者においてこれを真実なりと信ずべき相当の理由があれば犯意を阻却するものとし犯罪の成立を否定しもつて実際上における証明の困難(真実と証明との間に存する不可避的な間隙)との調和を図ることがむしろ法益保護均衡の目的に合致するものと解し得るからである。尤もこの点につき所論はかかる結論の採用は公表者の単なる思い過ぎに基ずく不当な批判を公務員の犧牲において保護するに帰し明らかに公平を失する旨主張する。

しかし摘示事実が真実なることにつき相当な理由があるということは敍上説明にてらし推知し得るがごとく公表者の単なる善意の思い過ぎを許容する趣旨ではないのであつて、証明は不十分ではあつたが真実性の点につき摘示者が爾く信ずることは健全な常識にてらし認容される程度の客観的情況のあつたこと、即ちこれを公務員の立場からみればかかる公表をされても致し方ないものと健全な常識によつて是認される程度の情況にあつたかどうかの点は就中考慮参酌すべき事柄であるから公務員の不当な犧牲において公表者が保護される旨の所論は当裁判所の右見解に従えば全く杞憂というべきである。すでに然りとすれば、本件第二公訴事実につき真実性の証明があつたかどうか、もし証明不十分とすれば、原審説明のごとく被告人が真実なりと信じたことが右にいわゆる相当理由に基ずくかどうかにつき検討を進めざるを得ない。

そこで記録を仔細に検討すると、

(1)  大阪府警察消防職員購買利用組合が取得し組合員に配給した本件繊維品に関する詳細は組合長たる鈴木栄二において事前に熟知していたものと認められる。

事実尤もこの点については原審で証人として出廷した鈴木及び主事安井才治は極力否認してはいるが該供述には不自然な個所が随所に散見し、とうてい真実を証言しているとは考えられない。しかもこれら鈴木の知情の点については鈴木等が否定する以上他に確証を求めることが困難ではあるが以下の状況により推測ができないことはない。即ち鈴木は組合長として単に組合業務を統轄すべき責任があるだけでなく、事実上組合に属する業務に関しかなり鎖末な点まで指揮しておることが窺われ、例えば物資蒐集に要する引取り自動車運賃のような些細な点に至るまで指示を与えていた形跡が存すること及び右組合は大阪府警察消防職員等一万数千名の終戦後における物資欠乏による困窮を救済するため物資の購入配給等により組合員の福利厚生を図るのを目的として設立されたものであるが、当時の需給事情上繊維製品のごときは最も貴重視されたものの一つであり、これを大量に入手し得るに至つたとすれば斡旋者の氏名、素性、斡旋事情、価格等は当然問題となる点であつて組合長を輔佐すべき主事安井才治としては誇りをもつて鈴木にこれらを報告したであろうし、鈴木としても右のようなやり方からみて当然事前に釈明しこれを聞きただし熟知していたものと認めるのが常識だからである。

(2)  さらに当時のごとき乏しきをわかちあうべき逼迫した物資需給事情の下において本件のごとき多量の繊維品が一私人から一部の団体に譲渡されるについては何らかの特別事情の伏在するのが当時の通念であり鈴木も警察官たる以上かかる消息については十分認識があつたものと推測される事実。

(3)  鈴木の腹心の部下たる安井才治、坂田正雄ら組合幹部、及び当時本件繊維品を組合に斡旋した元警部西岡政德木野丈吉等は警察官等組合員の福利に関しては関係当局の証明書等が形式さえ整えば容易に入手し得る実情にあつた関係上、統制法規の存在はきわめてこれを軽視し少くとも違反行為に対する違法性の認識のごときははたしてもつていたかどうかを疑われても致し方のない実情にあり、(右安井等に関する違反行為の捜査は右被告人の糾弾を端緒として開始されたのであるが、大阪市警察局におけるこれらの捜査はきわめて微温形式的であつて検察庁における本格的捜査の結果大規模な違反行為が白日下に曝露されるに至つた点を想起すべきである。)しかも鈴木自身例えば物価統制令は組合が組合員に物資を配給する場合には適用がないというがごとき誤つた見解をもつていた事実。

(4)  鈴木を除く組合幹部あるいは関係者には多数の犯罪容疑が客観的に存在(安井に対しては臨時物資需給調整法違反、物価統制令違反、背任として、坂田に対しては、臨時物資需給調整法違反及び教唆、物価統制令違反、背任として西岡に対しては公文書変造、同行使、詐欺、臨時物資需給調整法違反、物価統制令違反として、木野に対しては臨時物資需給調整法違反、物価統制令違反として当時それぞれ起訴)した事実。

(5)  鈴木は被告人の第一次乃至第五次の告発事実公表の点を告訴したのに対し大阪地方検察庁が第一次乃至第三次告発を不問に付した事実。

(6)  当時組合との本件取引を主たる仕事としていた木野丈吉はいわゆる闇業者と目されていた人物であるが、同人邸における相当豪奢な酒食遊興の宴席に鈴木が列席した事実。

がそれぞれ窺われるのであつてこれら諸点を総合しこれに鈴木が原審公判廷で前記いわれのない不自然な否定をしている事実を参酌勘案するならば、鈴木が安井等の犯行に全然無関係なりと考えることは甚だ困難であり、むしろ本件第二公訴事実記載と大略符合する一抹の疑惑(但し公文書二重行使の点は原判決説明のごとく論外である。)はとうてい払拭し難い。

(ロ)  飜つて思うに本件第二公訴事実における真実性証明の対象たる事実は「犯罪行為の存在」ではなくて「犯罪行為の疑い」と認むべきこと冒頭においてすでに説明したとおりであつて、かかる犯罪容疑の証明ありというがためには単なる憶測では足りないけれども、さればとて終局的に有罪の確定判決あるを要しないこと勿論であり、要するに形式的には犯罪の証明は不十分であつても健全な常識にてらし一応犯罪容疑の存在を推測させるだけの客観的な情況の存在にして明らかになればいわゆる真実性の証明ありと解するのが相当である。しかも名誉毀損罪におけるいわゆる真実性の証明なるものは、本来枝葉末節微細な点まで公表事実と一致することを要せず重要、本質的な点で符合するをもつて足るものと解すべきであるが、本件記録に徴し窺われる鈴木に対する疑惑は厳密な意味における法律的評価(告発罪名)は兎も角として、公表した事実関係即告発状記載内容の骨子とは大体において符合すること前敍のごとくなる以上、犯罪容疑に関する右被告人の公表事実はむしろ一応の証明ありと認めざるを得ない。

すでに第二公訴事実について真実性の証明ありと解すべきものなる以上同被告人の認識如何の点について彼是審究検討を加えるまでもなく、その罪責を否定すべきこと刑法第二百三十条の二第三項の明文に照し一点疑ないところである。(尤も真実性の証明にして不十分なりとの見解をとる場合にあつても同被告人が真実なることを信ずるについては右(1)乃至(6)の諸点にてらし、いわゆる相当理由の存する場合には少くとも該当すべきこと敍上説明に徴し了解すべきである)。されば原判決が右第二公訴事実についても真実についても真実性の証明不十分と解したのは適切ではないが、結局において該事実についても同被告人の罪責を否定したのは正当であつてこの点に関する所論もまた排斥せざるを得ない。

更に進んで被告人下司順吉に関する部分について判断をする。

同被告人に対する公訴事実中同被告人が頒布にかかる本件パンフレツト中において「鈴木警察局長の罪状」と題し種々鈴木の名誉を毀損するに足る事実を公表していることは記録上明白であるが、就中「本件繊維品取引により鈴木が数千万円を不当に利得しこれをその政治資金につかつている」ことを暗示している部分については記録を精査してもその証明ありとは認め難く、また同被告人の犯意に関しては、被告人高野に関し説明した趣旨におけるいわゆる真実なりと信ずるにつき相当の理由ありと認むべき事実も竟に発見し難い。従つて被告人下司に対する刑事責任を否定した原判決は少くとも審理の現段階においては失当というの外なく論旨はその理由あるに帰し原判決中同被告人に関する部分はとうてい破棄をまぬがれない。

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